由紀子のブログ

父の思惑 大成功

 
 
こんにちは。
由紀子です。
ブログ、ご無沙汰していて忘れ去られていますね~~^^

今日はワタクシの誕生日です。
誕生花はコケ。苔。こけ。。。
花??と思いましたが今は気に入っています。(笑)


朝からお墓に行ってきました。

実は誕生日は59歳で亡くなった父の命日でもあります。

生きていたころは、会社の人やご近所さんには
サービス精神旺盛な父でしたが、
家族にとってはたいしたことのない父で
好きではありませんでした。

そんな自分勝手な父が余命宣告を受け、自宅で
亡くなるまでの
1年3か月で父との確執が解けていったように思います。

あれから15年。(30歳の誕生日だったのでこれまた数えやすい)

自分を1年に1回ぐらい思い出してもらおうと
、一人娘の誕生日を狙って亡くなったに違いありません!!
作戦大成功!

今年も思いだしたよ~。お父さん。
15年記念。

あなたの妻が亡くなった後に書いた手記を載せますね。

月日が経つのは早いです。


「夫 逝き、今 想うこと」

                       西納 とき代

 平成13年6月、突然「会社の健康診断で引っかかった。
 明日、国立病院へ行くから。」
と、大きな茶封筒を持って帰ってきた夫。

「先生と技師の人がえらい慌てとったわ」
と、他人ごとのように話す。

その日たまたま居合わせた娘がフィルムを見て、
「この影は私が見てもよう分かるわ。これはおかしいでお母さん」と、
心配そうに話したのを覚えています。

国立病院での検査結果は、

悪性のガン
「肺癌」Ⅳ期の末期。

既に膝、肩、脳にまで転移が進んで手術の出来る状態ではなく、

「3か月。長くてあと半年ぐらいの命」

と本人同席で告知され、

何かの間違いではと信じることができませんでした。

この5月には大峰山へ修行登山に行ってきたばかりなのに、、、

そう言えば「膝が痛くて辛かった」と話していた事。
癌の転移だったなんて・・・・

元気の塊、酒もたばこも無用な人が・・・と

夫の気持ちを気遣う余裕もなく動揺し、取り乱しながら、
夫が肺癌の末期であるという現実を受け入れる事になったのです。

病院から入院の勧めもあったのですが、
「ここまできてしまっているのなら入院するより、
その日までも残された時間を自由に自宅で過ごすしたい」
と本人が決め、
病院からの再三の電話も断り、
化学療法はせずに
最後はマリア病院ホスピス病棟にお世話になる覚悟を致しました。

ホスピス病棟へお願いに行った時、川口シスターから小声で
「どんな事でも相談してくださいね」との一言が
心細く不安いっぱいの私には
どんなにか心強く思ったことでしょう。

どんなことが起きても与えられた運命、
逃げても逃れ様のない道だと心に決めたのはこの頃でした。

「英明さん、私に出来ることはさせて貰うね」
と、少し恩着せがましく言ったものです。

それからの私たちは毎日漢方薬に民間療法と全国を走り回り、
癌に効く食品を買い込み、
癌を克服された人の家を尋ね、

その日を境に別世界の生活が始まりました。

この時期、
主人は
「きっと奇跡が起き、命を長らえる」
と信じていたと思います。

食事よりそちらを食べたり、飲むことに専念し、
何処へ行くにも必ず持って行き、
娘が
「お父さんの近くに行くと、漢方のにおいがプンプンするわ!」
と言っておりました。

それでも
「自分には時間が無い」
と死を覚悟してか忙しく動き回り、
愛犬(チビ)を手放し、
出来る間にしてやると、
井戸の工事やら身辺整理をし、
これは○○さんに貰って頂けるようにと名前を貼り付け、

「死に装束はこれだ。側にはこれを入れてくれ。」とか、

「○○に頼んであるから、その時の写真はこれで。」

「頭が狂ってしまったら眠らせてくれ。」
と細々とした話ばかりをしていたように思います。

暇が出来ればドライブ、ハイキング、家族旅行、
娘婿に背中を流してもらって、

「もう最後やろか。」とか、

「このきれいな空気を肺一杯に吸ったら治るやろか。」と言っていましたが、

主人の頭にはいつも、死への恐怖が離れなかったと思います。

8月のある日、狩猟仲間が最後だろうと、
お食事会を盛大にして頂きましたが、皆さんに感謝しながらも、
主人の顔が寂しそうで物悲しそうにも映りました。


<10月1日 夜>

お風呂上りにいきなり言葉にならないことを喋りだし、
呂律が回りません。

本人は言葉を必死に探すのですが
ますます言葉にならず、
身をソファに投げ出し仰天していました。

私は胸の鼓動が高鳴り、
言葉を出すと主人に可哀そうで悪いようで、
しばらくそのまま時間が流れ、
主人はその後、
黙って二階の自分の部屋へ上がって行きました。


<10月18日>

朝5時40分、主人の様子が変だと気付くと、
飛び跳ねるような
痙攣が起き、このまま逝ってしまうのではと、
初めてみる痙攣にびっくりし怖かったのですが、
それでもこの時は随分落ち着いていたように思います。

その日、このままでは何が起きるか不安で、
これから先の事を思うと藁をも縋る想いで、
だいとう循環器クリニックへ(姫路で往診してくださる先生
があることを娘が知っていて)
お願いの電話をし、快く引き受けてくださったのです。

受付の方の行き届いた優しさ、
目でお話をされ、
感じの良い笑顔、
花瓶にはコスモスが入り、
部屋の隅角にポットも置いてあり、
こんなに暖かい雰囲気のあるクリニックがあったのかと感心させられました。

勿論、先生始め看護師さん達も素敵な方ばかりです。

今もだいとう循環器クリニックとの出会いを感謝致しております。


<12月>

病状は徐々に進み、通院の時、
クリニックへ入らず素通りしてしまう主人を見て、
これからは腕を組んで歩こう。

そうすれば、素通りしてしまった悲しさを味わずに済むだろうと思い、
この腕の温もりはあと何か月続くのか?
この人の体温を覚えておこうと
腕を組んで歩いたのです。


<1月>

文字が書けない。
着替えが出来ない。
お風呂に入ってもボーっとしている。
変なことを時々言う。


<1月11日>

往診のお願いをする。
緩和療法が始まる。
この頃よりよく嘔吐する。(脳内の腫瘍が大きくなり脳圧亢進)

この先どんな症状が出てくるのか?
余命半年は過ぎてしまった。
いつどんな症状が出ても不思議でないことはよくよく聞かされているので、
覚悟はできているつもりでも、不安がいっぱいでした。

でも、毎日クリニックから電話を頂け、
それが何よりも心強く頼もしく感じる日々でした。池

の土堤に桜が咲く頃まで居られたら車椅子で散歩しようと思った4月も終え、


この頃より本当の介護が始まりました。

「このバカヤロー!」といきなり頭を叩かれたり、
突然、床にする放尿の音で起こされたり、
一日中変な事(地下室に閉じ込められている。
脱出方法を考えている)をブツブツ話したり、

お風呂も娘が背負って連れて行き、
尿や便のコントロールが全く出来ず、
おしめは蒸し暑いし大層なので、自作の尿袋を考案し、
我ながら良い方法と感心した事もありました。
(その時の紐は今も記念に取ってある)

この頃一番強く感じたことは、気持ちにゆとりを持って、
ほんの少し距離を置いて介護しないと、
鏡のように私の気持ちが夫の顔に表れ、
夫の顔の表情がそのまま私の心の様だと
反省させられる事もしばしばありました。


<6月末>

寝返りが出来なく、介護用のベッドをレンタルする。
お蔭で床ずれも出来ず、
お風呂にも週2~3回は入れられ、
助かったのは散髪、知人がベッドでチョキチョキと
月1回着て頂けたのでありがたい。
感謝。


<7月の末>

少し様子が変わりだす。


<8月3日>

往診の看護師さんが1週間前とは様子が違うとのこと。


<8月6日>

往診日、後3日くらいと言われる。


<8月7日>

クリニックより『病状の変化について』が届く。

死の直前の症状が記してある。
いよいよ終わりが近づいている。


<8月8日>

高熱が続く。
本人の希望もあり点滴をしないと決めていたのですが、
本当にこのままでいいのか?
何もしないのは見殺しではないのかと、自問致しました。

荒い息が続き(駆け足で山登りをしているぐらい)苦しそうです。

何回か脈や息が途絶えてもまた動きます。

指先も、足もすっかり冷たいのに、
心臓は止まってはまた動く。
「お父さん、もうそんなに頑張らずに楽になろうね。
お父さん、よく頑張ったね。長い間ありがとう。」

家族に見守られるなか

平成14年 8月10日逝く。



こんな自然な形で自宅で看取る事が出来たのは、
いつも往診に来ていただけるという安心があり、
大頭先生を始め看護師さん、薬剤師、スタッフの皆様の
お蔭と心から感謝いたしています。

自宅で最後まで介護できたのは、
大頭先生が何時どんな時での往診して頂ける
安心感が常にあった事が一番です。

療養がが短時間であった事。
看る時間と体力があり、
家族の協力が得られた事。(行き届かなかったけれど)
夫の場合は痛みを訴えることもなかったし、
言葉が不自由で何も苦痛を言わなかった事かと思います。



癌で死ぬことは珍しい事ではなく、
その時期が少し早く来た。

どんな夫婦にも別れがあり、(ほんとは先に逝きたいけれど)
私は当たりくじが外れたのだと
(二人の時間と余裕がこれから出来るはずだろうに)
思いながらの日々でした。

主人を海へ山へと誘いだし
定期便のようにお見舞いに来て下さるかた、
『癌に効く』、珍しい品物を届けて下さったり、
私が大変だろうと『ご苦労さん会』だと手料理をして招いてくれた友。


それはそれは多くの人の思いやりの中で過ごすことができ、
支えられ、
今まで見えていなかった世界を体験させて頂いた1年でした。

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最期まで読んでくださってありがとうございました。

生まれれば必ず死ぬ時が来る。
誕生日はそんなことも思う日なのかも知れません。

父が亡くなった数年はこの手記を書いた母は不眠や食欲不振で痩せましたが今では
立派に成長した下腹をゆらし元気に走り回っています。
オンナは逞しい!!

写真は先日であったモリアオガエルです。かわいい!!


ソルテもプールに入って夏を乗り切れそうです。


それでは皆様、残りの夏を楽しまれて下さい。

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